お風呂前にとりあえず町亜聖ですよ、お父さん!
タイトルと内容が一致しないこと請け合いのダノンです。心理学の本(仮題)の8/21エントリの「自分の体験を臨床に活かすなら「本当に活かした」臨床ちうものを考えてはみませんか」で偶然私の名前を発見。
びっくりたまげたついでに私も記事を書いてみようかなんて思いまする。
前もって言っておきますが、psy-pubさんの話題の中心部分について語るのではありません。
まずは、春木 繁一さんの本を読んでからだろ!と私の超自我が叫んでおります。
でも私のイドは“強引でマイウェイ”なので、書いちゃいまする。
まさに「当事者性」を活かしきった「専門書」の数々。これらを見ていると「気持ちが分かること自体」が重要なのではなく,「気持ちが分かること」が,「本当に必要なサポート体制を構築する」ための「動機」となりえるし,かつ,医療の俎上に載せるべく,臨床・研究・啓発に文字通り心血を注いでらっしゃるわけでして,その原動力として「体験」が影響してることは明らかです(それだけではないでしょうけど)。 もちろんすでにある程度の「素地」がある領域では,そうである必要はまったくといっていいほどないでしょう。しかし「素地」がない場合には「開拓」が必要で,「開拓」には強い「情熱」が必要で,じゃあその「情熱」がどこから来るのか,ってことなんですわ。
今日のpsy-pubさんは何だかちょっと温度高めでいい!
こんな夜はぜひこれの「お祭りわっしょい」を!
それはさておき、この記事では春木 繁一さんが自らが透析を受けながらも透析患者さんへの面接を行なったり、多くの著書を出していることを取り上げています。
自らの病気を動機に、同じような病気を抱えた方に対して狂おしいほどの情熱をもって臨床や研究をしている姿がじりじりと伝わってきます。
psy-pubさんのおっしゃるのように、自分の病気が動機となり、実践と研究(あるいは普及)に力を注がれるのは素晴らしいことだと思います。そんなことそんな生半可なもんじゃあありません。
さてさて、私が「気をつけるべき」といっているセラピスト側の課題はあくまで精神的な課題であり、身体的なものとは異なると考えています。その点についてちょっと考えて見ます。
春木 繁一さんの場合は身体疾患であって、もちろんそのことは精神面に影響を与えると思いますが、それらは二次的であると思います。
身体疾患と精神疾患をそれほど分けて考える必要はないと思っている私ですが、どのような差異があるかといえば、「個人差の大きさ」ではないかと思うのです。
身体疾患の場合はビジュアルで、科学的に一目瞭然なので個人差はそれほど大きくなく、勉強すればするほど他者の役にも立てうると思うのです。
一方、精神疾患や精神面の課題は個人差が非常に大きい。精神疾患に話を限った場合、DSMやICDなんてもので操作的定義をしたって、概念としては非常に曖昧であると思います。
そうしたときに自分の体験が他者の体験と非常に異なる場合があり、自分の「分かる」が援助の妨げにさえなると思うのです。
psy-pubさんも書かれていたように、ACなんてものを引き合いに出すと、非常に分かりやすいと思います。ACは診断基準に基づく分類でもなく、一層概念が曖昧なだけに、自分の体験も非常に活かしづらい。
さらに言えば、心理的な課題によっては援助をすることで自らの存在意義を見出す場合などもありますが、透析患者さんがそのようなことになるかといったらそのような動機で援助に情熱を注ぐということとは異なるように思います。
こうした差異があるため、身体疾患を持った方の援助と精神的な疾患や課題に基づく援助では比べづらいように思います。
ただし、春木さんが自分の身体疾患の体験に基づいた心理的援助を行なっているようなので、そのあたりでどのような援助をしているのかが気になります。
だから
まずは、春木 繁一さんの本を読んでからだろ!
に回帰しました。おそまつ。
私が書いたことなんて、本当にちぢれっ毛みたいなもんで、psy-pubさんの書かれていたことに「あっぱれやってくれい」といった感じなのです。
なにはともあれ、psy-pubさんのブログでしかまだ知りませんが、春木さんの仕事振りは本当に素晴らしいんだろうなぁと思います。
恐らく、春木さんは自分自身の病気から得た心理的な困難の体験からうまく距離をとりながら、それを援助という“方法”にまで落としているのではないかと推察します。
やっぱり、春木さんの本を読んでからだな。
これは恐らく「立ち読み」ではすまされません。
・・・
つぶやきですが…この(金にならない、そして金のかかる)領域にわざわざ踏み入る人たちの動機っていうのはそれぞれにユニークだと思いますする。
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