槇原敬之の「花水木」を聞くとなぜか泣けてくるダノンです。
さて、こんばんは認知療法・認知行動療法のいいところについてです。
以前、 認知行動療法から入る とか もういっちょ認知行動療法 で記事を書きましたが、そのときはどちらかというと認知行動療法をオリエンテーションにしようと思っていらっしゃる方を想像して書きました。
内容的にもどちらかというと危惧について書いたのですが、今日はいいところ。
ちなみに私のオリエンテーションは何かと聞かれれば「分析的アプローチです」と答えます。
さて、私が思うには、認知行動療法のいいところは、エビデンスどうのこうのはさておき、“セラピストが自分を見つめる(セラピーする)のに使える!”というところがいいなと思います。こう書くと、「一人でできるわけねーだろ」と言われそうな自動思考が働くわけですが…自動思考の同定など、訓練することは多いですが、それでも初学者でも自分を見つめることに使いやすいです。それは認知行動療法の理論的枠組みのおかげだと思います。
セラピストだって普通の人間なので、たくさん課題はありましょ。少なくとも私はいろいろとありますよ。
私の恩師は「自分で自分をスーパービジョンできること」の重要性をよく語っておりました。これはどういうことかというと、SVを受けるのは重要なんですが、所詮数時間。そこで扱えることもわずかなんですね。そうなると、扱えないたくさんの課題をどうするかということになるわけです。そうなると、自分が自分をどうスーパービジョンしていくかということが重要になるというのです。ここでいうスーパービジョンは教育分析的な意味合いを含みます。
分析的アプローチのトレーニングの中でも嫌と言うほど自分を突きつけられますが、自分一人だと頭の中でぐるぐると考えが回ってしまい、深みにはまってしまうことがありました。それはそれで意味があることだと思うのですが、自分の中でめぐることに自分自身が距離を持つことって結構難しい(転移解釈など、第3の自分を育てることって分析では非常に重要ではありますが)。
そこで認知行動療法なんですが、理論的に客観的に捉えやすい枠組みを持っているため。客観的に自分を見つめるのにとても有益です。もちろん、分析でも自分で箱庭をやったり、コラージュをしたりと表現し、それを再び取り込むことはできることには出来るのですが、それだと解釈の際の主観性をコントロールするのが難しい。
認知行動療法の目的の中に「自分で自分のセラピーをできるようになる」といったものがありますが、それはセラピストにも当てはまるわけですね。
実際に自分自身をアセスメントしてみると、その日のイライラから自分が陥っている悪循環をつかめたりして、結構楽しい。私の経験的な意見として、書き出すことで客観化できることが大きいと思います。
さらにこうして自分が使うことのもたらす意味は他にもあって、セラピストもクライエントの間で嫌でも作り出される「援助する側」「援助される側」の差異を縮めることにもなると思います。
セラピストもクライエントも同じ人間というラインを常に頭に入れておくことが重要だと私は思っています。これって当たり前のことなんだけど、どっかで「援助を受けることにはならない」「私はクライエントにはならない」と思っているセラピストって少なくないと思うのです。どこかで“クライエントとは違う”って思う気持ちがあると、やはり臨床の細部に出ると思うので、気をつけねばと自戒しております。
だらだら書きましたが、認知行動療法、単純に面白い。
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