いやいやいやいや~、ジダンの頭突きの場面が流れるたびに吹き出すダノンです。あれ、マテラッツィーもすっごく役者だよね、もんどりうって倒れる姿にあっぱれやってくれい!
ところで今日は心理臨床における「師匠」について物思い。
まぁ、師匠といえば8割は三枝か坂田ですよね、何か。
ここからは私なりの「師匠」という捉え方に基づいて語ります。「師匠」とは辞典だと「学問または武術・芸術の師。先生。」なんて表現されています。ただ、私としては関係の中で指導者を「師匠」と捉えれば、自分は「弟子」となるのだろうと思います。
臨床家の中には自分の指導を受けた、あるいは受けている指導者のことを「師匠」と呼ぶ方がいます。
もちろん、それはそれで好きになさったらいいと思いますし、恐らく敬意の表れなんだと思います。
ただ、どのくらいその言葉について自覚して使っているのだろうかと疑問に思うことがあります。
「師匠」というのは、「師弟関係」を生み出しますから、非常に偏った見方をすると、一種の「ドグマ」が存在することになり得る可能性があるのではないでしょうか。「師匠」の教えを忠実に守るという関係が「弟子」にはあるのではないかと思います。
かつて、フロイトはドグマティック、あるいはドグマティズムであると揶揄されていました。精神分析という「自由」の中に無意識を見出す理論が実は「不自由」の中にあるということでしょう。
そうした徒弟関係は不自由さを与え、他の指導者からの指導に対する非寛容的で、非生産的な態度につながる可能性があります。
「師匠」と呼ぶ関係はそれぞれかもしれませんが、あえて「師匠」と呼ぶということは「フリー」でいること、一臨床家であることをどこかで大切にしていないのではないかとも思います。もし指導者がそういった関係を求めるのなら、うーん、私には理解しかねます。
臨床の世界って面白いもので、必ずしも経験者が経験の浅い人よりも効果的な援助が出来るかといったらそうとも限らないんですよね。人相手なので、経験の浅さによる真剣さ、初々しさが功を奏する場合もあるし、相性の問題で初学者の方がうまくいく場合もあるんですね。
そう考えると、指導者は逆に指導をしている臨床家や学生から学ぶこともありうるわけです。そういった開かれた態度を持っている臨床家は師匠であることを求めないのではないかと思います。
また、師弟関係であるなら、弟子は師匠の指導に対して異論を唱えたり、師匠のケースに対して対等な立場として議論をしたりしづらい関係であると思います。このあたり、もちろん指導を受けている立場の人間が指導者に対して議論をすることは難しく感じられることもありますが、少なくとも「弟子」「師匠」ではなくて、一臨床家としての立場であるという「抱え」があるのなら、議論しやすいでしょう。
少なくとも、私の指導者は「恩師」ではあったとしても「師匠」ではなく、またその方も私を「弟子」ではなく「一臨床家」としてみてくださいました。それは自己責任を徹底するという意味もありますし、専門家としての自覚をより早い段階からしっかりと根付かせる意味もあったと思います。
何度も書きますが、一言に「師匠」と指導者を呼んでいる方でも関係性はそれぞれの個別性があるでしょう。
私が言いたかったのは、どのくらい意識をしてそのような言葉を用いているかということです。それは臨床家としての重要な部分に関わってくると思ったからです。
そんだけ。
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