臨床心理士の指定校の増加は留まるところを知りませんね。どんどんと増えていく。でも、そんなに受け皿ねーだろうって。
その辺でSCが受け皿になっている現状を憂う声はネット界隈で聞こえています。
臨床心理士を目指される方が多いですね。私もたまに尋ねられたりします。
そんな時、応援はしません。もちろん充実感や簡単に言ってしまえば「楽しいなぁ」とか「良かったなぁ」と思える瞬間はあります。それがなくちゃやってても自分にもクライエントにも望ましいとは思えませんしね。
ただ、本当に苦しい経験もするから、それでやめていった人が何人もいるから、よく考えて欲しいなって思うことが多いです。もちろん、道を改めるのはそれはそれでいいんです。でも、個人の自由と言い切れないのが臨床の世界だと思うのです。中途半端に途中で投げ出されるクライエントのことを考えると、単純に考えられるものでもないと思います。
入り口でやめておけばそんなにも辛い体験をせずに済んだのにと思うことがたくさんありました。それは自分に対してもそうかもしれないなぁ。
ただ、最近はちょっと考えが変わってきました。
少なくとも、そのくらい辛い体験をできることが大切なんじゃないかなぁと。
そのあたりを大学院時代に経験できることは苦しいながらも望ましい道なのかもしれないと思うようになりました。
かなり大学院によってその辺は違うんですね。話していて思いました。ほとんど臨床をしなくても受験資格が得られる1種校や、2種でも厳しいトレーニングを求めているところ。様々ですね。
こういった中で思うのは、苦しい体験、う~ん、自分という人間を突きつけられる体験をしっかりとしているのといないのとでは、クライエントと自分の位置に違いが出てくるなぁということです。
私の周囲、あるいは関係する方に限ってなのですが、そういったことを体験していない方はどこかクライエントと自分が同じ線上にいないような感じがします。
なんていうのかな、もちろん援助する側とされる側なので、完全な対等関係といものは成り立たないのかもしれませんが、少なくともセラピストの自分もクライエントになりうる可能性はいくらでもあるということがどこかつながっていないように見えるのです。
クライエントを自分とは全く異なる種類の存在として見るというといいすぎかもしれませんが、何か自分はクライエントにはなりえないと思っているような感じが「遠さ」を産んでいるように思えます。その「遠さ」は適切な距離感というものとも異なるもので。
院時代でも、仕事をしていても自分を突きつけられるときは苦しいものです。そういったことを体験していると、安直には勧められないです。でもそう思えるのも苦しい思いをしているからこそであって、それは大切なことなのこもしれません。
もし私が心理臨床が楽しくて、そこまで苦しい体験を伴わなかったら、「ぜひぜひお勧めですよ」と心理臨床の世界を勧めていたでしょう。そう考えると苦しい体験をしてきたことは重要だったように思えます。
ここまでの話は自戒も込めてのものです。じゃあ自分は他人にいろいろ言えるほどしっかりやれているか?そんなことを考えることも既に自分を自分に突きつけています。
これからも、クライエントと向き合い、同時に自分と向き合い続けていかなくてはなりません。少なくとも、それをやっていきたいと思えるうちは研鑽に励みたいと思います。
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