だーいぶごぶさたですわ。
先日の記事に関して、「いち臨床心理士」さんからコメントをいただきました。
博士課程の院生が相談室でケースを持つことがあるんですが、そこの研究室が室をあげて「認知行動療法」を看板に掲げてることもあって、とにかくどれもこれも認知行動療法。心が晴れるノート。フィーリングgoodハンドブック。(CBTをやっている人ならみんな読んだことがあるはずの本です)
いくつかのオプションのひとつとしてCBTを選ぶというのはアリだと思うし、エビデンスを重視することやケースフォーミューレーションをすることの大切さには首肯できるのですが、どのクライエントさんにもそれらのワークブックのコピーを渡して宿題させて…というスタイルにはなんとなく違和感ありますね。
あと…キャンセルとか遅刻の意味、悩まないですねえ。思わずうんうんと大きくうなずいてしまいました。
重要な点を書いてくださったと思います。
個別性を操作的に定義し、精神障害のカテゴリ化をするのがDSMやICDです。それらに対してAPAのタスクフォースで効果があるといわれる療法の中で認知行動療法が多くを占めます。
認知行動療法は「科学的」とされ、効果測定を行い、実証していく積み重ねは評価できます(ただし、認知行動療法の概念に合う質問紙によって効果を測定するわけで、1つのトリックのようなものを感じるのは私だけ?)。
さて、個別性をまとめていって、「この障害だから認知行動療法」とするようなやり方でうまくいくでしょうか。うまくいく場合もあるでしょうが、やはり最終的には個別性に対応するというのが臨床の場なわけです。
なぜか認知行動療法が薬物療法のように用いられているような場面を見ることがあります。相手の個別的な部分への考慮が乏しいままに用いられることがないわけでもないなぁと思うことが多いです。
今、この状態でホームワークを入れることがどのような意味を持つのか、関係性として適切か、やってくるか、やってこなかったとすれば何が起きているのか…
キャンセルや遅刻に関してもそう。「こなかったな」とか「遅れたな」とか、それだけでよいのか。なぜそうなったのか。そこに表れる関係性を考えることで認知行動療法的な関わりも変化してくるように思うのです。必ずしもこちら側が臨むようにアジェンダを遂行したり、ホームワークをやるとは限らない。そういう関係性を通じて「何がおきているのか」を理解する意味で力動的な視点は欠かせないと思うのです。
さらにいえば
日本できちんと認知行動療法が効果測定されているのか。海外では感覚的な部分よりも論理性を重んじるような文化的背景があり、それが認知行動療法とフィットしているとはいえないか。認知行動療法が必ずしも我が国の国民性にフィットするのか。
ただ無批判に「認知行動療法は効果がある」という姿勢で選ぶのは安直だと思います。
スポンサーサイト
|