自分が辛い経験をしたので、その経験を生かして誰かの役に立ちたいと思われる方がいる。
これは、時に心理臨床の世界に入ろうとするきっかけになったりする。それはそれできっかけとしては何の異議もないけれど、危険なことでもあると思う。
心理療法の基本中の基本(かつ、最大の目的でもありますが)はクライエントに添うことだと私は考えてる。 例えばこんなことをクライエントが語ったとする(もちろん架空のケースです)。
「「私の愛する人が亡くなってしまって…もう苦しくて仕方ありません」
このとき、セラピストも同じように愛する誰かを失った経験をしていたとする(このようなことが事前に分かっており、課題がある程度克服されていない場合は担当しない方が望ましいと思いますが)。
このときにセラピストが「うんうん、そうですよね、つらいですよね」(これ自体変な返し方ですが)と自分の経験に基づいてクライエントに伝えるとする。
このとき、セラピストは愛する人を失って、心の支えを失ってしまった辛さを想像してことばを返したとする。
一方、クライエントは愛する人の借金をも背負ってしまったことが特に辛かったとする。
果たしてクライエントに添えているか。
100人が同じイベントにであったとしても
100人とも感じ方はその人それぞれ。
セラピストが「私も同じ経験をした!」と分かった気になってかけたことばの響きをクライエントは見抜くことが多いと思う。
自分も同じようなイベントに出会ったときこそ気をつけるべきだと考えています。かえって、自分の経験したことのないことの方が、自分が添うことができるまで聴いて、聞いて「だからそう感じるんだ」となれるのかもしれない。
じゃあ、自分の経験は役に立たないか。
それは違う。役に立つ。ただ、それは材料に過ぎないのだと思う。例えば死別の体験をしたときに、どういうサポートが助かったかということがクライエントのサポート資源を考慮する材料になるかもしれない。自分の経験をあてはめるのではなく、それを材料にクライエントにあったサポートを検討すること、それが大事なんじゃないかと思う。そしょてそれが内的照合枠(internal frame of referece) というものだと思う(言うは易し、実際にそれをするのがなんと難しいことか!)。
よく、「自分が○○でつらかったから、同じようなことで悩んでいる人を助けたい」なんてことばを耳にするけど(これにはいろんなツッコミができるわけなのですが「助けたい」とかも)、その人は、つらい経験をしているときに「うんうん、わかるよ、僕もそうだった」と(言わなくても)、その人の体験に基づいて分かった気になられたらどんな気持ちがしただろうか。もしかしてあたっていたり、かすっていたりするかもしれないけど、センシティブになっているのだから、変に分かった気になられていたら逆に腹が立つんじゃないかとも思う。
自分の経験を材料にする重要性、ただ、そうできるにはちきんとしたトレーニングが必要なんだと思う。
ちまたの「わかったちゃん」にならないために、わが身を振り返りつつ、気を引き締めるダノンなのでした。
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