トラバに感謝。トラバーユっこのダノンとしては(違うから!)嬉しい限りです。気持ちをいただいた気がして、感謝申し上げます。
おっと、いつもの出だしを忘れてた。
鼻血で献血できるなら、かなりの人助けができると思われるダノンです。ちなみに、医療用「蚊」の開発にはかなり期待しています。それなら私、血をあげちゃう。
さて、以前に私が書いた 認 知療法・認知行動療法のいいところ について寄せられたすえぞうさんの
ケースがおわった後になんか悶々とする気持ちが残っていたときとかに, 結構コラムに似たようなことをしている自分がいます. しかも,それをSVにもってったりして・・・www 意外にそれを教えてくれたのは, うちの師匠の僕に対する修論指導だった気がします.
という、めっさファンキーなコメに私がイカ臭く突っ込みました
おぉ、もう少し詳しく聞きたいですな。 修論自体が認知療法に絡むことだったのか、 あるいは修論指導時も臨床を意識したものだったのか。 ちなみに私は後者で、修論指導の時も常に臨床を意識したトレーニングを受けました。ちょっとした仕草さえも注意され、その無意識的意味を考えるよう指導されましたwww
これについて、一見放置プレイを見せかけて(嘘よん)、熱いエントリしてくれて、あ~、ヨガ・フレイム!(←古!)
ありがとうございます。
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すえぞうさんはすえぞうさんにとって素晴らしい指導者にであったようですな。ここで「すえぞうさんにとって」というところがミソですわ。主観的体験が大切です、指導者とは(持論ラモ)。
そんな中で、自分自身の行動に対して「なぜそうしたか」「なぜそうなったか」ということを説明することを求められたわけですね。その営みの中で自分の行動を起こした認知・感情などを客観的に理解していったんだというように捉えました。
結局のところ、(自分にとって)腕のいい指導者は自分を見つめることを促すのだと思います。分析であっても、認知であっても、行動であっても。それはまた苦しい体験だったりもします。だって、分析でいえば苦痛な体験を避けるために防衛が働くんだから。その防衛を点検し、奥にある感情や認知を見ていくとき、depressiveな体験も付随してくることが多いです(これは私の体験ね。すえさんはここまで言ってない)。
自分の行動の意味を考えていく。そしてその行動を説明する。さらには自分の行動に責任を取る。指導のステップがそのまま臨床に生きる糧になっているのだろうとお察しします。
ちっとずれるのですが、「なぜそうしたか」「なぜそうなったか」ということを説明するということはそのまま対クライエントにも当てはまるものですね。専門家である以上、自分の介入について説明できるひつようがあるわけで、逆に言えば説明できないようなことをやっているのならアカウンタビリティに応えることができないわけですね。
また、自分なりに説明できるからこそ評価が出来る。評価が出来るからこそ次の介入につながるという一連の臨床の流れを作れるわけなんだと思います。また、説明ができることでSVや事例検討で有意義な検討ができるのでだと思います(えーっと、えっとーでは深まらない)。
さらに話がずれますと、「△△で○○した」と説明できるながれというのはそっくりそのまま研究にも当てはまるのですね。問題があり、根拠をしめした上で方法を取る。そして結果が出て、その考察を行なう。臨床ではさらにその考察を受けて再び問題を設定し、方法(介入)を行い…
臨床と研究が同様の思考を求められると言うのはこういうことなんだと思います。
さて、たっぷり話がずれました。
1つ確信を深めたのは、すえさんも私が述べた
「自分がクライエントやケース自体に対してどのように思っているか、感じているか、自分の関わりはどうなのかを常にモニタリングする習慣」
「全てを意味のある情報として捉える姿勢」
をすえさんも大切に思っていたということ。
このあたりのことを論理的に説明してくださり、さらに勉強になりました。また同時に思ったのは、こういった姿勢はアプローチを問わず、臨床において共通して重要なことなのだろうということです。
偽物のCBT実践家もいるかもしれませんが,あくまでそれは一部であり本当の実践家もいらっしゃるのだと言うことだけは伝えておきたいと思います.
私が見てきた認知行動療法家によって膨らんだ過度の一般化は修正されつつあります。ありがとうございますです。
やはりCBTの技法をきっちりと修めた指導者にSVを受けて,はじめて出来るようになるものだと考えます.
この辺については悩みどころです。クライエントへの迷惑を考えればきちんとした認知療法家のSVを受けて実施するのはごもっともだと思うのです。ただ、物理的に指導を受けることが難しく、ワークショップなどへの参加くらいしか出来にくい人の場合はどうでしょうか。やるべきではないといった感じでしょうか、それとも「きちんとした認知療法はできないよ」という意味でしょうか。もし時間があればこのへんもお考えをお聞かせ願えればと思います(パスも大いにありです、お付き合いしてくださる気になったらと言うことで)。
ともあれ、あがりた亜紀!おっつ、ありがとうございました!
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